がま口の歴史


がま口の歴史
history of Gamaguchi

現代の生活に溶け込んでいて且つ和の雰囲気も持つ“がま口”は、明治期に日本にやってきた舶来品です。
知っているようで知らない、そんながま口の歴史をご紹介します。

実は西洋生まれなんです。

日本でのがま口の歴史は、明治時代にまで遡ります。明治維新により欧米文化が日本に流入してきたことによって、当時の人々の生活形態は著しく変化し、新旧事物の対立から模倣、折衷、和合へと進展していきました。日本人に馴染みのある“ガマ”の名前もそのフォルムも、すっかり和の象徴に思えるがま口ですが、実はその頃の明治期にヨーロッパから伝わった舶来品です。

日本に最初にがま口を持ち込んだのは、明治政府の御用商人の山城屋和助(1836年-1872年)といわれています。明治4年(1871年)山城屋和助は軍隊の兵器を輸入して陸海軍に納入する条件で、政府から60万円借用してヨーロッパに赴きました。

フランス、イギリス、ドイツを回ってアメリカ経由で翌年に帰国した際、当時のフランスで紳士物、婦人物を問わず大流行していた西欧式の牛革やがま口の鞄、財布を日本に持ち帰り、それらを模倣して売り出したのが、日本における製鞄(せいほう)業、そしてがま口の始まりといわれています。

日本に定着したのは小額紙幣が発行されたから?

口金が蝦蟇(がま)の口のように開くことから、がま口の名がつきましたが、当初は「がま巾着」「西洋胴乱」と呼ばれ、肩にかけたり腰に提げたりしていました。それまで、人々の財布は『懐中信玄袋』と称される信玄袋を小型にしたものが用いられていましたが、第一次世界大戦による好況から明治4年(1871年)に小額紙幣が発行されたのに伴い、札入れが大流行。それが追い風となりがま口もさらに改良されて確実に売れ行きを伸ばしていきました。

初期の口金は「引割口(ひきわりくち)」と呼ばれ、溝形の金具を曲げ二つに引き割ったものでした。口金は錺屋(かざりや)と呼ばれる金属製のかんざし・帯留め・指輪など金具の細工をする職人が作る真鍮(しんちゅう)製に限られており、高価なものでした。しかしその後、安価で便利な溝輪金のものに変わっていき、より庶民の生活に身近なものとなっていったのです。

近代日本と共に歩んできたがま口

日本には江戸時代から『胴乱』という、革または布製の四角の袋で、印章や薬などを入れて腰や肩に提げて使用する鞄に相当する入れ物がありました。幕末になると西洋鞄の影響で胴乱も鞄のような型式に少しずつ変化していきました。そして明治に入り、山城屋和助が日本で最初に「鞄」を売り出した事によって、本格的な鞄づくりが始まったといわれています。

鞄の口金製造工業の増産も進み、明治10年(1877年)頃から、がま口は全国的な流行となり、さらに10年後の明治20年(1887年)頃には袋物中、がま口は最高の生産額を示しました。しかし、当時のものは堅牢度に欠けていたため、一時衰退の兆しが見られましたが、明治25年(1892年)頃からは技術、材料ともに改善され、安定した品質のものが作られるようになりました。

大正12年(1923年)の関東大震災を境として、身軽で働きやすい洋服の実用化が進展していきます。袋物は『オペラバッグ』や『握り』『ハンドバッグ』などに名称を改めて、婦人被服に欠くことの出来ないものとなり、女性の職場拡大に伴って口金付きの鞄が流行しました。

昭和に入るとファスナーや擬革レザーが輸入され、口金と共に袋物に多く使用されましたが、戦時になり、物質・物価統制令により皮革、金属の使用が禁止になるなど袋物にとって逆風の時代が訪れます。 しかし戦後、技術の進歩によりナイロンや塩化ビニールが日本でも生産できるようになり、袋物にも非常に多く応用されることになりました。 こうして現代に通じるがま口付きの鞄は誕生しました。

あやの小路では、そのようながま口の歴史を継承しながら、枠にとらわれず、常に新しいがま口のスタイルの提案ができればと、袋物製造部門としては初めて「京都府の現代の名工」に認定された、林一男氏の下、京都にある工房・秀和がま口製作所において、日本製にこだわり、日々、精進しております。また、がま口を閉める音がパチンと鳴ることから、8月8日を「がま口の日」として一般社団法人 日本記念日協会に申請し、2013年正式に認定されました。

今後とも、真心をこめた物づくりを心がけ、皆さまにお届けさせていただきます。

  • 参考文献
  • ・世界大百科事典
  • ・明治事物起源
  • ・舶来事物起源事典
  • ・東京袋物商工協同組合沿革史